傷
                 これは良くないことになった。
                 
                    
                 なんだって、こんなガラの悪い男達に捕まっているのだろう。
                 気付かれないように小さく溜息を吐いた。
                
                 ほんのちょっと、気になったのだ。
                 
                    
                 振り返っても訳が分からない。なんで捕まっているのだろうと、舞弥は後ろ手に縛られた両腕をどうにかできないかと考えながら思った。
                 どうやら聞こえてくる話から推察するに、ここら辺は見た目に反して治安が悪いらしい。所謂人攫い、人身売買を行う者が居る程度には。
                 空鵝と離れなければ、せめて声をかければ良かった、とぼんやり考えているうちにも話は進んでいく。
                 どうやら多少顔立ちは整っているとみられたのか、こういう顔が好みの人間が居るのか、どんどん話はいくらで売るかという方向に転がっていく。
                 もういっそのこと売られて、そこから脱出した方が早いんじゃなかろうか。そんなことを舞弥は考え始めていた。いくら舞弥が錬金術を使えるとはいえ、それは人を傷付けるのには向いていない。錬金術が使える以外は(恐らく)普通の女子だ。男達と戦って逃げるというのは無理があるだろう。
                 ああ、空鵝が助けに来てくれないかなあ。
                 それ以前に居ないことに気付いているだろうか。もしかしたら居なくなって清々したと思っているかもしれない。いや、流石にそこまで非情な奴ではないはずだ。多分。
                 どちらにせよ、自分がどこに居るか分からないだろうから、助けには来れないだろう。さて、どうやって逃げるか。
                 そんな舞弥の思考を遮るように、大きな音が鳴り響いた。それは爆発でも起きたのかと思わせるような音だった。
                 びっくりして音がした方を見れば、そこにはこれまた大きな穴が空いていた。
                 いやいやいや、と舞弥は口には出さずに思う。見た感じこの倉庫と思われる場所の壁はコンクリートのような物で出来ている。それも断面を見た感じかなり厚い。それを壊すとは一体――。
                「舞弥」
                 その声に、思わずびくりと体を震わせた。え、何これ。舞弥は呆然とした。聞き慣れた、だけど知らない声だった。舞弥は知らない。こんな、激情を秘めた声は、知らない。
                「空、鵝……?」
                 呆然と呟けば、「やっと見つけた」と声が返ってきた。まさか探してくれていたのだろうか。突然消えた自分を。しかも見つけ出したというのか。何もヒントなんてなかったはずなのに。
                「な、なんだてめえ!」
                 若干震えた大声が思考を遮る。男達何人かが舞弥の前に立ち、一人が舞弥の後ろに立った。舞弥を逃がす気はないのだろうが、壁を破壊した空鵝に怯えているのも事実だろう。逆光で空鵝の表情は窺えない。そのことが余計恐怖を煽るようだった。
                 ガチャリと音がして、男達がそれぞれ手に武器を持つ。いや、あの。思わず声が漏れた。後ろに居た男が「てめえの仲間が心配か?」と若干馬鹿にしたように問いかけてきて、違うというのも馬鹿馬鹿しくなって口を閉ざした。自分を攫った人間に、同情の余地なんてなかった。
                「野郎共、やっちまえ!!」
                 後ろの男が叫ぶと同時に、男達が空鵝へと走って行く。雄叫びと共に武器が振りかざされ、そして。
                 そして、男達が倒れた。
                「は……?」
                 空鵝の右手が鎌の形に変わっている。あ、あいつ約束破りやがった。変形するなって言ってたのに。どこかズレたことを思う。
                 でもまあ体が真っ二つになっていなかったあたり、「殺しは絶対にしない」という約束は守ってくれているらしい。流石にスプラッタな現場は見たくない。
                 と、安心したのもつかの間。ゴキリという鈍い音と共に野太い悲鳴が上がる。踏みつけて足の骨砕きやがった。そのまま足の位置をずらしてどんどん足の骨を砕いていく。……て。
                「ちょ、ちょっと空鵝! あんたなにしてんの!?」
                「え? お仕置き?」
                 けろりと言葉が返ってくる。その軽そうな言葉と裏腹に、その声には煮えたぎるような何かが見え隠れしている。
                「だからってやりすぎでしょ!!」
                「そんなことないよ」
                 即答。なにがそんなことないだ。あんたが足を踏みつけている男、泡吹いてるじゃないか。
                「て、てめえ……! それ以上何かしてみろ! 女の命はねえぞ!!」
                「痛っ……!」
                 後ろの男が突然ナイフを向けてきた。勢いよく向けられたナイフは、頬を軽く傷付けた。
                 ぞくり。
                 いつも何を考えているのか分からない底なしの瞳が、ぎらりと黒光りした気がした。
                「ねえ」
                 そのたった一言で、男の動きが止まった。
                「殺すよ」
                
                 一瞬の出来事だった。
                 瞬き一つの時間で私たちの真横に移動した彼は、その腕を人間のものに戻し、男を思いきり殴った。どぐしゃ、と普通は聞かないであろう音と共に男が後ろへと吹っ飛んでいき、どうやらそのまま壁に叩きつけられたらしい音が再び響く。
                 え。……え?
                 驚いて振り返れば、空鵝は倒れた男の胸ぐらを掴んで立っていた。その表情はいつも以上に感情が読めない。
                「君さ」
                 その顔が、白い仮面のような物に覆われていく。髪の一部も狼のような耳に変わっていく。
                「本当に」
                 それは、見たことのない、姿だった。
                「許さないから」
                
                「空鵝、空鵝! やめて!!」
                 悲鳴めいた声で止めれば、その見慣れない姿のまま空鵝がこちらを振り向いた。
                「なんで?」
                「な、なんでって……その人死んじゃうって!!」
                「舞弥は優しいよね。こんな奴の心配もするんだから」
                 その手に捕まれている男は、最早虫の息といった状態だった。腕や足はあり得ない方向に曲がり、青あざもあれば血も流れている。それをこちらが止める暇もなく行った。その容赦のなさに、こちらが恐怖を覚えてしまうほどだ。
                「舞弥に免じて、これくらいにしておこうかな」
                 ぱっと手を離すものだから、男の体はどさりと音を立てながら崩れ落ちる。呻き声が上がっている。それもそうだ、あれだけやられた上にこの仕打ち。痛くないはずがない。
                 空鵝は男など見向きもせずにこちらに向かってくる。歩くたびにその姿が見慣れたのもへと変わっていくことに、少しばかり安堵を覚えた。さっきまでの姿はなんというか、少しばかり怖かったから。
                「舞弥」
                「な、なに」
                 目の前までやってきた空鵝が手を伸ばしてくる。ちょっとばかり緊張してしまうのは許して欲しい。さっきまでのを見てると、ね。
                 するり、と優しく頬が撫でられ、ぴりりとした痛みが響く。
                「痛い?」
                「え? あ、忘れてたわ……」
                 自分でも頬を触ろうとして、未だ腕を縛られたままだったことに気付く。解いてと言えば、空鵝は人差し指を刃物に変えてざくざくと紐を切っていった。一緒に腕も切ってしまうのではとひやひやしたのは内緒だ。
                「はい」
                「ありがとう、助かったよ」
                 手首の凝りを解しながらあたりを見渡す。なんというか、死屍累々といった感じだ。死んではいないはずだけど。
                 これはまずい。非常に良くない。
                 いくら相手が先にやってきたとはいえ、これでは過剰防衛どころの話ではない。牢屋行きになってしまうだろう。牢屋にはきっと別々に入れられるだろうから、そうしたら最後、私たちは他の世界へ移動できなくなってしまう。
                「あー……」
                 そこまで考えて呻けば、「どこか痛いの?」と首を傾げられた。
                「あんた、やりすぎ」
                 そう言ってデコピンしてやるが、どうやらダメージは殆どないらしい。まあ、予想はしてたけど。
                「なんだってここまで……」
                 溜息を吐けばきょとんとした表情が返ってくる。なんでそんな表情をする。
                「だって、大切な舞弥が傷付けられたんだよ?」
                「は?」
                 た、大切って言ったぞこいつ。大切って、私が? じょ、冗談もほどほどにして欲しい。……あ、私がいないと他の世界に移動できないから大切なのか。そうに決まっている。だから熱くなるな顔、あと落ち着け心臓。
                 そんなことを言い聞かせているうちに、外が騒がしくなってきた。どうやら最初に空鵝が建物をぶっ壊した音が原因で警察でも呼ばれたのだろう。
                「やば、早く次の世界に移動しなきゃ。あ、荷物……」
                「荷物ならあるよー、そこに」
                 空鵝が指さしたのは、穴を開けて空鵝が入ってきたところだ。見れば確かに荷物が置いてあった。
                 急いで次の世界へと移動しよう。
                 荷物を拾ってこの世界に別れを告げる。丁度警察か何かの人たちが扉を開けて入ってきたが、そんなことは知ったこっちゃない。逃げるが勝ちだ。
                 ああ、次の世界はもう少し平和だと良いなあ。